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ある時間を失っているのです。
私は神奈川県の横須賀という町に住んで働いていますが、数年前たいへん困った教育問題に直面しました。中学生が学校に弁当を持ってくるのに、箸を持ってこない生徒が現れたのです。箸を持ってこいと先生が言いますと、「おれ、箸がなくても食えるぞ」と開き直られて指導ができないというのです。私どもの町には公立中学が22枚ありますが、その風潮が22の学校全部に広がったのです。お手上げでした。そういう生徒は弁当箱にかぶりついて食べるのです。これを先生がイヌ食いと呼びました。イヌが食べるように弁当箱から食べる。
私たちはパンをなくして生きることはできません。衣、食、住の基本的欲求が充足されなければ生活は成り立たないのです。しかし、そのパンはいかなる形でも与えられさえすればよいというものではありません。私たちが求めるパンは権利としてのパンなのです。権利というのは、もともと自分に属するもので、手にしようと思えば手にできるものをいいます。人が上がら下へ投げ与えたものをイヌのように四つん這いになって食べたいとは、あのひもじかった戦中戦後でさえ、だれ一人願わなかったのです。なぜなら、それは人間のこころを失うことを物語るからです。
動物と人間は違います。動物はうつむいてえさを求めてさまよい歩くのです。えさを得ることが動物の目的です。人間はどんなに貧しくても衣、食、住は目的になり得ないのです。それを手段にして、より高い人生に向かって生きようとするのが人間なのです。豊かさのゆえに、飽食のゆえに、いつの間にかパンが目的化されたのではないか。パンが目的化されるということは、生きる意味を失うということです。これが今日の私どもの社会なのではないか。豊かなるがゆえに目標を喪失しているのです。

 

 

 

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